(一六)


 スザンネ・ビア監督の映画『ある愛の風景』を観ました。この監督の作品は、ちょっと前に『アフター・ウェディング』を、二〇〇四年には『しあわせな孤独』を観てもいて、今回もそのつながりで観たんです(もっとも、『アフター・ウェディング』は『しあわせな孤独』にも出ていたマッツ・ミケルセン ── 『007 カジノ・ロワイヤル』では悪役として登場し、私は「あ、『しあわせな孤独』のひとだ!」とすぐに反応したんでした ── のために観たといった方がいいんですが)。日本で公開された彼女の監督作品はこの三本のみですが、どれもとても優れていると思いました。ここで私が「優れている」というのは、たとえば、つい先日私が紹介した『善き人のためのソナタ』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)などよりも、作品がよほど高度だということです。『善き人のためのソナタ』についてしゃべったとき、私はあれがただひたすら主人公を存在させるために「単純化されて」脇役も筋も作られている(だから、私は自分がなぜ感動したのか、考えざるをえなくなったんでした)といいましたが、スザンネ・ビアのこれら三作品には、そうした、いわゆる主人公というものがいない・不在なんですね。だから、中心を失って、全体をなにか突き放したようにも見えるわけなんです。
 主人公に焦点を当てて作品に向かうことができれば、観客はそれだけ楽なんですよ。それは、作り手も同じです。スザンネ・ビアはそれをしません。登場人物たちはみな作品内で均等に扱われ、それぞれに自立しています。誰ひとり、他の誰かを際立たせるためにそこに登場したりしないんですね。全員が、それぞれたしかにそこにいる・存在している・ある意味では、それぞれ勝手にどうしようもなく生きているというふうに描かれるんです。それでいて、観客が全体を楽しめもする。これはすごいことなんです。
 ともあれ、ここで私がなにをいいたいかというと、もしかすると、『ある愛の風景』を観たひとのいくらかが、この作品を、途中の非常にショッキングな映像と、その後の展開ばかりを追うことになって、次のような観点でのみこの作品全体をとらえることになるのではないかという懸念なんです。そうして、これは前回、前々回の私の文章に連なることになりもします。というか、そもそもこの後につづく文章を書いている途中で『ある愛の風景』を観たので、なんだかつぎはぎのようになってしまうことになるわけですが、とにかく、こういうことです。


 前々回に引用した ──

 このような結末に終る悪魔的な人間の苦悩に充ちた自己矛盾 ── 自分の秘密を知っている人を持たないでいることも持っていることもどちらも耐えられないというような ──


 ── ですけれど、『カラマーゾフの兄弟』でなく、同じドストエフスキーのべつの作品から引用してみます。

「かりにきみが月に住んでいたと仮定してみる」相手の言葉には耳をかさず、自分の考えをつづけるようにして、スタヴローギンはつづけた。「そしてそこで、滑稽で醜悪な悪事のかぎりをつくしてきたとする……きみはここにいても、月ではきみの名前がもの笑いの種にされ、千年もの間、いや永久に、月のあるかぎりきみの名前に唾を吐きかけられるだろうことを確実に知っているわけです。ところが、きみはいまここにいて、こっちから月を眺めている。だとしたら、きみが月でしでかしたことや、月の連中が千年もきみに唾を吐きかけるだろうことが、ここにいるきみになんのかかわりがあります、そうでしょうが?」


 スタヴローギンはその前にこんなことをいっていたんです。

「たとえば、かりに自分が何か悪事を働いたとする、というより、むしろ恥になるようなこと、つまり恥辱になるようなことをしたとする、それも非常に醜悪な……、しかも滑稽なことで、世間の人が千年も忘れずにいるどころか、千年も唾を吐きかけつづけるようなことをしたとする、と、ふいにこんな考えが浮かぶのですよ。(こめかみに一発打ちこめば、それできれいさっぱりじゃないか)とね。そうなったら世間の人がなんです、千年も唾を吐きかけられるのがなんです、そうじゃありませんか?」

(同)


 私は少し前に『タイガーフォース』(マイケル・サラ、ミッチ・ウェイス 伊藤延司訳 WAVE出版)というヴェトナム戦争でのアメリカ軍の一部隊についての本(ソンミ村 ── あるいはミライ村 ── での虐殺以前に、アメリカ軍のある部隊=タイガーフォースがそれ以上のことをしつづけていた、という内容でした)を読んでもいるんですが、どうやら、スタヴローギンの「そうでしょうが?」は結局通用しないんですね。彼の「月」を「ヴェトナム」に置き換えてみたわけですが、ひとはやはり耐え切れなくなるものらしいです。タイガーフォースの帰還兵がどうなったかを読んでみてください。月と地球との距離、あるいは、ヴェトナムとアメリカの距離などなんの意味もありません。罪を犯したという自覚のある人間にとっては。もちろん、ドストエフスキーだって、それを承知でスタヴローギンを描いたわけです。
 あるいは、私は『初めて人を殺す』(井上俊夫 岩波現代文庫)や『私は「蟻の兵隊」だった』(奥村和一・酒井誠 岩波ジュニア新書)を思うわけです。


 ── そういうことです。

 もしかすると、『悪霊』におけるスタヴローギンを見るような観点、また、同じドストエフスキーの『罪と罰』でのラスコーリニコフとソーニャとの対話を想起した観点 ── たしかに、そのままの描写がありますね ── で、あるいは、『ソフィーの選択』(ウィリアム・スタイロン) ── この作品もいつか紹介します ── でソフィーが選択したことというような観点で、それのみを強調し、中心として考えて、『ある愛の風景』を受け取ってしまうひとがあるのではないか、と私は心配するわけです。

 狭い意味で、私のここまでいってきた「実存主義(=「人を試す思想」)的」な考えに縛られているひとにとっては、そんな「まとめ」も可能なんです。そうではあるんですが、それはいけません。
 とはいえ、さんざん「実存主義(=「人を試す思想」)的」な考えに縛られて、長い年月を経てようやくそこからの脱却というか、べつの場所に漂着することのできた私は、たしかに『ある愛の風景』の後半について、自分のよく知っていることが扱われていて、それが重要であることもわかってはいます。しかし、それと同時に、私はこの映画がそれだけじゃないこともわかるんです。だから、私のここまでいってきた「実存主義(=「人を試す思想」)的」な考えに縛られているようなひとが、いったいどこまで「それだけじゃない」ことを理解できるかが心配なんですよ。まったく、こういうのを老婆心というんでしょうけれど。

 というのも、繰り返しますが、スザンネ・ビアの作品に主人公のいないこと・すべての登場人物が均等に描かれていることが、もしかすると、ある種の観客には理解できないかもしれないと思うからなんです。理解できない観客が、その代償として求めるのが、いま挙げたような要素の強調なんじゃないかと私は疑っているんです。

 スザンネ・ビアの作品では、そんなものも決して中心になりはしません。それはただの一要素です。それはただ登場人物のひとりの事情にすぎません。そんなものをもただの一要素としてしまえることがすごいんです。もっと大きなもの(もっと「平凡」なもの・もっと「日常的」なもの)を彼女は描ききっているんです。そう受け取ることができなければ、彼女の作品のすごさがわからないんですね。

 スザンネ・ビア監督作品をもう一度並べておきますが、

しあわせな孤独』(二〇〇二年制作・日本公開二〇〇四年)
『アフター・ウェディング』(二〇〇六年制作・日本公開二〇〇七年)
ある愛の風景』(二〇〇四年制作・日本公開二〇〇七年)

 このうち『しあわせな孤独』はDVDが出ています。



しあわせな孤独 [DVD]

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死に至る病 (岩波文庫) 悪霊 (上巻) (新潮文庫) 悪霊 (下巻) (新潮文庫) タイガーフォース