(七)これは退却戦か?

 これは退却戦か? という疑問も当然予想されます。わかりません、と私は答えるしかありません。わかりません、わかりません、わかりません、というのが、私の主題のひとつでもあるでしょう。

 トーマス・マンをちょっと引用してみます。

 ……わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理ですら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかし、わたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。

(『ファウストゥス博士』 円子修平訳 新潮社)


 私がここまでいってきたことのなかで、なにがいまの引用のうちの「共同体」であって、なにが「真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想」であり、なにが「真理」なのか、もう一度考えてみてほしいんです。

 あるいは大西巨人

「戦争の行なわれる最中にも戦争のために戸惑いをすることなく永遠の問題を考えつづける精神が存在するのを、私は望んでいる。そのような人々がいまはあまりに少ないのではないか、と私は恐れる。戦争が世界に充満している時代ゆえに、われわれの日常の思考も、戦争と切り離されないが、それに眩惑されて事物の本質を見あやまってはならない、と私は思う。」


 同じく大西巨人

「人は、『精神の、魂の、連絡船』を(大小何艘か)持つべきであるが、とりわけ数年このかた、自分は、まるでそれを持たない(持つことができない)。」という(桜井自身もが、「われながら、取り留めないような」と断わらざるを得なかったところの)感想を述べたのも、そのおりであった。……どこからどこへの、何から何への、連絡船なのか、それは、彼自身にも、ほとんど五里霧中のような事柄である。ただ、もしも彼がその「精神の、魂の、連絡船」を(何艘か確実に)所有し得たならば、彼の内面における「落莫の風」は、たぶん吹き止むのではないか(少なくとも風勢がずいぶん落ちるであろう)、という漠然たる予感のようなものが、彼自身になくはない。……

(「連絡船」 講談社文芸文庫五里霧』所収)


 しかし、私はとにかくここに書きはじめたわけです。なんとかこれをつづけたいと思っている。私は商売に向いていないだろうと思いますが、しかし、それでも私のような者を必要としている少数のひとがいるにちがいない、また、私のような者を必要としているにもかかわらず、まだその自覚のない少数のひとがいるにちがいない、と考えてもいるんです。私は誰にも彼にも必要とされたいなどとは全然考えていません。

 また、こうも考えられますね。つまり、私がこんなことをやろうがやるまいが、読むひとは読むし、読まないひとは読まないのだ。これについては、はっきり「そうではない」と私はいうことができます。私の勤める書店の店頭で、私が薦めなかったらカート・ヴォネガットを一生読まずにいたひとがいる、あるいはドストエフスキーを、あるいはジュリアン・バーンズを、あるいは辻邦生を、あるいは森敦を、あるいは松沢呉一を、あるいは……。それは確実にそうです。それを私ははっきり知っているといえます。この手応えを知っていなかったら、たぶん私はこんな企てを起こさなかったと思います。

「誰も彼も」が私の薦める作品を読まなくてはならないなんてことはないんですが、ごくわずかな数にせよ、ほんとうはその作品を読むべきなのに読んでいないひとがいる、自分がその作品を読むべきなのだということにまだ気づいていないひとがいる、と私は考えています。そういうひとがこのホームページにたどり着くという確率も考えにくいんですが、それでも扉は開けておいた方がいいだろうと思うんです。そのひとにとって機会は多いほうがいいわけです。
 しばらく前に私はこう書きました。「私が読書案内をしたいのは、いくらかでも「背伸びをする」つもりのあるひとたちです。いまの自分には容易に理解できない作品・手強いと感じる作品に手を伸ばすつもりのあるひとたち。いつかは自分にもその作品を読みこなせるようになるのではないか・その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか、と思っているひとたちです。」
 そのひとたちに作品を引き合わせたいし、そのひとたちが読みはじめて感じるはずの抵抗感をできるだけ払拭しておいてやりたいと思うんです。
 逆に、作品にとっても、本来はもっと読まれるべきなのに実際はほとんど読まれていないというものがあるはずです。

 こんな所業は、結局無意味なセンティメンタリズムでしかない、とあなたは思うかもしれない。あなたが思うだけでなく、それは、客観的にそうでしかないのかもしれない。しかし、自分としては、それが一つの小さな「精神の、魂の、連絡船」であ(り得)るかもしれないと考える。……

大西巨人「連絡船」)


 とにかく始めてしまいます。それに、全体をいっぺんに説明しようとも思っていないんです。先は長い。私の話は繰り返しばかりになるでしょうが、その繰り返し具合・重なり具合がやがては全体を示すことになるのではないか、と思っています。

(二〇〇七年二月二十七日 改稿)