「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 ここで、この問題のまたべつの側面。
「権威」とされているテレヴィだのラジオだの新聞だの雑誌だののマスメディアにはまだまだ大きい影響力があるにせよ、実は、その力は確実に低下してきてもいます。インターネットが登場したからです。

 松沢呉一 ── この一連の記述のなかでも登場してもらった ── が新著『クズが世界を豊かにする』で、こう書いています。

 なにも誰もがここまでやらなきゃいけないわけじゃないですが、インターネットの登場で「少数派は意見を言う場がない」なんて不平は、もう成立しない社会になってきていることだけは間違いない。「お前が自分で書けばいいじゃん。投稿すればいいじゃん。誰もとめないよ」で終わっちゃう。でも、インターネットを前にしながら、その発想の転換がまだできていない人が多いんだと思えます。

 今まではメディアというものを一部の人たちが独占していたために、不平を言うことができました。文句だけ言っていればよかったんだから、楽な社会だったんですよ。これからは、「何もしない自分」が問われるんですから、厳しい社会がまっていますよ。ワクワクします(笑)。

松沢呉一『クズが世界を豊かにする』 ポット出版


 マスメディアに抗して、「正しいなら、一人でも行く」というひとたちが新しいメディアをつくりだしていきつつあるということです。もちろん、インターネットというメディアがありながらも、せっかくのその場ですら「各人の弱みや卑劣さをたがいに薄ぎたなくいたわり合って衆を恃むような消極的連帯」をしか望まないひとたちが圧倒的多数であることに変わりはないんですが、それでも発言したいひとはそうすることができるんですし、それをきちんと受け止めてくれるひとも必ずいます。そのとき、しかし、実際に発言する ── 私の考えているレヴェルの発言ということですが ── ひとたちは、おそらく「そうせざるをえない」んだと私は思うんです。