『ウォールフラワー』

『ウォールフラワー』


 スティーブン・チョボスキーの『ウォールフラワー』をゆっくりと再読した。前に読んだときもよいと思ったが、今回もよいと思った。
 もともとはこれの映画を見て、そこでデヴィッド・ボウイの「Heroes」が特別な使われかたをしていたのを、原作ではどう書かれているのか知りたかっただけだった。しかし、読み出したらとてもよくて、映画よりもはるかに素晴らしいと思った。原作に「Heroes」は出てこない。そして原作者自身がこの映画の監督だ。

やあ。
 君にこれを書いているのは、あの子が、君ならちゃんと話を聞いてくれるし、パーティのときあいつとセックスできそうだったのに君が手を出さなかったって教えてくれたからだ。きっと君は僕が誰だか気になるだろうけど、ばれるのは嫌だから、あの子っていうのが誰なのかは考えないでほしい。いちおう、周りのみんなのことも、偽名や適当な名前とかで書くことにした。僕の住所を書かないのも、それが理由だ。変な意味はないからね。本当に。
 ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人がいるってことを、僕ははっきりさせたいんだ。そんな人たちがいるんだって、ちゃんと確かめたいんだよ。
 君はそういうことが大事なんだと誰よりも分かってるはずだから、僕が言うことだって、誰よりも理解してくれるよね。みんな君のことは、頼もしくて友達がいがあるやつだと言ってるし、そうであってほしい。まあ人聞きだけどさ。

スティーブン・チョボスキー『ウォールフラワー』田内志文訳 集英社文庫


「君にこれを書いているのは、あの子が、君ならちゃんと話を聞いてくれるし、パーティのときあいつとセックスできそうだったのに君が手を出さなかったって教えてくれたからだ。」の「あいつ」が「あの子」だと了解するまでにちょっと時間がかかったのは、前回も今回も同じだったが、それはよしとしよう。
 引用したのは「一九九一年八月二十五日」という日付とともに作品冒頭の文章だ。「僕」から「君」宛てに書かれたたくさんの手紙、一年分がこの作品だ。最初の手紙は高校入学を目前に書かれた。十五歳で書き始め、途中で十六歳になる。
 最後から二番めの手紙にもこうある。

 ごめん、もう書くのをやめたほうがいいね。
 でもまず、君が僕の話を聞いて理解してくれたことに、すぐセックスさせてくれそうな相手がいても手を出さなかったことに、ありがとう。

(同)


 この作品の隅々までが「ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人がいるってこと」を信じている者の言葉だ。もちろん「ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人」がそうそういるものではないと知っているからこそ彼はそう書く。すぐやれそうな相手がいたならやるものだ、とか、すぐやれそうな相手がいたときにやらないやつはいない、といういわば常識のなかに彼は生きている。
「ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人がいるってこと」のなかには、そのひとが手を出さなかったというちょうどそのことで相手に恥をかかせないということまでもが含まれると私は思う。恥をかかせないどころか、むしろ大事にされているという感じ、喜ばしい感じを相手に抱かせもするだろう。
「僕」は「ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人」が実在していることを確かめたい。そして、それは自分以外の誰かでなければならないはずだ。自分以外にこういうひとがいる、どこかに確かにいるということが大事なのだ。このとき、ことがらが自分自身にできないことであってもいい。自分にはできないけれど、できたらいいなと思っていることを実際にどこかでやっているひとがいる。そのことを確かめたい。そういうひとがいることを知るだけでも自分は救われる。希望を抱いて生きていくことができる。
カラマーゾフの兄弟』にも「ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人」が出てくる。「この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?」という問いに対して出てくる。

「その人ならすべてを赦すことができます、すべてのことに対してありとあらゆるものを赦すことができるんです。なぜなら、その人自身、あらゆる人、あらゆるもののために、罪なき自己の血を捧げたんですからね」


 どこかにいる誰かと自分とのつながりということでは、ある手紙にこうある。この手紙を書く前に彼は薬を使っている。

 ときどき外を見ると、今までたくさんの人たちがこの雪を見てきたんだと思う。ちょうど僕と同じ本を読んできたたくさんの人たちのことを思うように、同じ歌を聴いてきたたくさんの人たちのことを思うように。
 その人たちは今夜どんな気持ちなんだろう。
 いったいなにを書いているのか僕にもよく分からない。まだ部屋がぐるぐる回ってるから、もしかしたら書くのをやめたほうがいいのかもしれない。もう止まってほしいのにあと何時間かは止まらないらしい。ジルっていう僕が知らない女の子とベッドルームに行く前にボブがそう言ってた。
 たぶん、この感覚を自分はよく知ってるんだってことを、僕は言いたいのかもしれない。でも前に味わったことがあるっていうことじゃない。この感覚を知ってる子がいるって分かるんだ。外が静かで、ぐるぐる回ってて、止まってほしくて、みんなは眠ってる。そして、自分が読んだ本は他の人たちが読んできた本だ。そして大好きな曲は他の人たちが聴いてきた曲だ。そして可愛いと思う女の子は他のみんなが可愛いと思う女の子だ。もし幸せな気分のときに同じことを考えたら、きっとめちゃくちゃ嬉しいって分かってる。なぜならそれは、みんなと調和するっていうことだからね。

スティーブン・チョボスキー『ウォールフラワー』田内志文訳 集英社文庫


 ここでも「この感覚を知ってる子がいるって分かるんだ」と彼は書く。そういう子がどこかに実在すると信じる。このとき彼のなかでは、まず最初に「この感覚を知ってる子がいるって分かる」がある。その一段階を経由して初めて、それを一般的な意味に翻訳し直しての「この感覚を自分はよく知ってる」が来る。

 ときどき外を見ると、今までたくさんの人たちがこの雪を見てきたんだと思う。ちょうど僕と同じ本を読んできたたくさんの人たちのことを思うように、同じ歌を聴いてきたたくさんの人たちのことを思うように。
 その人たちは今夜どんな気持ちなんだろう。

(同)


「この感覚を知ってる子がいる」ならば、その子は彼のいることを知っているはずだ。彼は雪や本や歌を通じて自分が未知の誰かとつながっているのを知っている。そのように彼が知っているのは、雪や本や歌を通じた向こうにいる未知の誰かが自身と彼とつながっているのを同じように知っているからだ。そういうことではないだろうか。彼だけが一方通行的に未知の誰かに思いを馳せているのではなく、彼はその未知の誰かも「その人たちは今夜どんな気持ちなんだろう」と考えているのが分かるのだ。「その人たち」の中にもちろん彼自身が含まれている。
 しかし、同じ本を読んだからといって、そのすべての人が「この感覚を知ってる子」ではない。

 二日前に電話したときには、あの子はずっと本の話ばかりしてたんだけど、僕が読んだことがある本のこともかなり話していた。僕が読んだことがあると言うと、彼女はすごく長い質問をするんだけど、実は質問というよりも、自分の意見を言って最後にクエスチョン・マークをつける感じなんだ。僕に答えられるのは、そう思うか、それともそう思わないかだけ。自分の意見を言う余地なんて、まったくありはしないんだ。それから彼女は大学に行ったらどうするのか話しはじめたんだけど、その話なら前にも聞いたことがあったから、僕は受話器を置いてトイレに行った。戻ってみたら、まだあの子は話していた。ひどいことをしたとは思うけど、ああしなかったら、きっともっとひどいことをしてたと思う。大声で遮ったり、電話を切っちゃったりね。
 あとは、僕に買ってくれたビリー・ホリデイのレコードの話をメアリー・エリザベスは長々とした。そういうすごいものを、ぜんぶ僕に教えたいんだって。でもそうやってすごいものを教えてもらったからといって、あの子の長話に付き合わされなくちゃいけないんだとしたら、教えてもらうのもなんだか気分がよくない。僕たちの間には、どうやら三つのことがある。メアリー・エリザベス、僕、そしてすごいもの。あの子にとって大事なのは、最初のひとつだけだ。僕には理解できないな。僕がレコードを誰かにあげるのならば、理由は気に入ってほしいからというだけで、僕からもらったんだなんてことは、気にしてほしくない。

(同)


 メアリー・エリザベスにとっては、読んだ本よりもその本を読んだ「私」が大事だ。彼女は「私」のために読書している。

「どこかにいる誰かと自分とのつながり」と書いたが、その「誰か」も「自分」もメアリー・エリザベスのような「私」を欠いていると思う。そうであってこそつながることができる。
「ちゃんと話を聞いてくれて、すぐやれそうな相手がいても手を出さない人」にもそのような「私」はない。

(二〇一七年二月四日)